テーマは日本の歴史の流れと、観光を結びつけることで、旅をおもしろくしようという取り組みです!あたりまえのことではありますが、日本の歴史の主要人物と歴史ある寺社仏閣は様々な関係性で繋がっています。
歴史は時代と時代を分断せずに、流れで見るとよりおもしろく感じられます。時代の流れの中で、多くの寺社仏閣が生まれています。現地でそのことに想いを馳せることで旅に浪漫が生まれます。
※歴史解説がメインではないので、簡単に流れをまとめています!(諸説ありでよろしくお願いいたします。)
今回は北条時宗が退けることに成功した元寇その後です。
元寇(蒙古襲来)その後
北条時宗
元寇二度目の蒙古襲来は大嵐の中、敵の将軍は運よく逃げ延びることができました。そのため北条時宗は、三度目の蒙古襲来が必ずあると予測し、備えを行います。博多に防塁を造り、そして九州に北条一族を〝守護〟として配置しました。
一方朝廷と寺社は、相変わらず〝神風〟が吹いたのは我々のおかげと主張し、幕府に〝寄進〟を求めていました。
そして、戦った御家人たちは恩賞を得られませんでした。
鎌倉幕府は三度目の蒙古襲来に備え、御家人たちと今後どう向き合っていくか迫られることになりました。
そして北条時宗は、日本と元、両軍合わせて10万人以上が亡くなった、元寇の死者を弔うために鎌倉に円覚寺を建立したのです。
円覚寺
鎌倉五山第二位の鎌倉有数の巨刹です。元寇で蒙古軍を撃破した北条時宗が戦死者を弔うとともに、己の精神的支柱となった禅宗を広めたいと願い、その師・無学祖元(仏光国師)への報恩の念から、祖元を開祖に円覚寺を建立しました。
国宝の仏舎利は、入母屋造り日本最古の唐様建築で、見事な山門も重要文化財です。花の寺としても有名で、ウメ、ハクモクレン、サクラ、アジサイ、紅葉など種類も豊富です。
1281年 北条時宗の弟の北条宗政が、29歳の若さで亡くなります。
元寇で活躍し共に幕府を支えてきた弟を失った時宗は、これ以降政治に対し一人で判断を下すことが多くなり、幕府は独裁政治と化していくのです。
天皇家血統の分裂
1281年 元寇後の京の都では、後宇多天皇が〝賢帝〟と呼ばれ、幕府中心の政治の中で、訴訟制度などの改革に意欲的に取り組まれておられました。
その少し前の1259年頃、三代前の後嵯峨天皇が、後に日本の歴史を大きく変えることになる決定を下していました。
後嵯峨天皇は皇太子(後深草天皇)に譲位しますが、そのすぐ後に自身が可愛がっていた別の皇子に、皇位を譲るよう後深草天皇に命じられたのです。
後深草天皇はやむをえず譲位を行い、弟の亀山天皇が即位されました。
この時〝天皇の系統〟に、兄(後深草天皇)と弟(亀山天皇)二つの系統が生れたのです。兄の系統を〝持明院統〟といいます。弟の系統は〝大覚寺統〟といいます。
(持明院統が現在の令和天皇の系統です。)
亀山天皇の皇子が先に紹介した、大覚寺統の賢帝 後宇多天皇です。
兄の後深草上皇は、自分の皇子が天皇になれない事に対し、大いに不満を持たれました。
そしてこの問題を作った 後嵯峨上皇は、問題を解決しないままに崩御されたのです。
この問題は幕府執権の北条時宗が間に入り、兄弟それぞれの皇子を交互に即位させる仕組みをつくったことで、一応は解決しました。これが〝両統迭立〟です。
時宗の死
1284年 北条時宗は突然の病に倒れました。時宗はあまりに一人で多くの事を背負いすぎたのでしょう。この時まだ34歳でした。
北条時宗の嫡男、北条貞時(ほうじょうさだとき)は14歳でした。時宗は、息子にまだまだ伝えたい事がたくさんある無念を抱きながら、親族の安達氏と、執事(政所次官)の平頼綱(たいらのよりつな)に後を託し、亡くなりました。
この頃になると北条氏一族は安定していたため、これまでのような相続争いは起こりませんでした。
しかし、後事を託されていた平頼綱と安達氏の間に〝政争〟が起こります。安達氏は御家人代表として、恩賞管理を行っていました。
そこで安達氏は元寇後に恩賞がもらえず、困窮していた武士たちに、北条氏の領地を独自の判断で分け与えました。
そのことで平頼綱が、安達氏が謀反を企んでいると讒言し、安達氏は領土を没収された上、処断されてしまいます。
元寇で多大な功績をあげた安達氏は、これで完全に没落してしまったのです。
さらに1293年には、暴走気味の平頼綱の専制政治を案じた北条貞時が、平頼綱を誅殺する事態となったのです。
元寇による様々な影響
この時代は皇族たちも更なる〝蒙古襲来〟を憂慮しておられ、亀山上皇は禅宗(臨済宗)に帰依(頼みとして、その力にすがること)し、祈祷を命じ、禅の不動の心を持って国難に対処されていました。
亀山上皇は出家された後に法皇となり、自らの離宮を〝禅寺〟にしました。これが臨済宗南禅寺です。15年かけて伽藍が建設され、後の世に〝京都五山の一〟と、高い評価を受けることになります。
ついでに言うと、後宇多天皇は真言宗、幕府執権の北条氏も禅宗(臨済宗)に帰依していることから、元寇がいかに大変な国難であったか想像されます。
南禅寺
京都市観光NAVI https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=436
京都洛東にある南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山。京都五山(禅寺のトップ5)の一つ、京都で屈指の格式をほこるお寺です。創建は1291年です。
見どころとしては、石川五右衛門の〝絶景かな〟の名台詞で知られる、高さ22mの大きな三門。重要文化財として〝日本三大門〟の一つとされています。また、南禅寺は春は桜、秋は紅葉が有名です。
特に国宝の〝方丈〟(寺の長の住まい)の前の枯山水庭園と、亀山法皇自ら作庭した池泉回遊式庭園が見どころです。
元寇以降、予想に反して大きな戦はしばらくありませんでした。
元寇に備えられた、街道整備のおかげで流通が盛んになり、商業が発展します。それと共に、持ち運びに便利な貨幣文化が発展し、日本国内で〝銅銭〟が造られるようになり、貨幣取引が主流になっていきます。
それと同時に御家人たちは、領地から得られる〝米〟を、貨幣に交換する際の〝物価変動〟に苦しむことになります。その一方で、商人たちは力を持つようになっていくのです。
また御家人たちは、三度目の蒙古襲来への備えや、京の都での職務や付き合いなど、お金がかかる事が多く、どんどん困窮していきます。
そんな中北条氏一族の領地は、九州守護などで増えていたこともあり、御家人たちの不満は募る一方でした。そのため執権北条貞時は父時宗にならい、徳政令(借金を棒引きする)を打ち出します。
しかし、これはお金を貸していた商人たちから反発が起こり、御家人は借金ができなくなったことで、ますます困窮していく事になっていきます。こうして御家人も商人も、鎌倉幕府への不満を積もり積もらせていくのです。
後醍醐天皇による倒幕計画
1311年 北条貞時が死去し、嫡男でまだ幼い北条高時(ほうじょうたかとき)が後を継ぐことになります。
鎌倉幕府が少しずつ揺らぎ始めた頃、京の都では両統迭立によって皇族内の政権争いが起こり、二つの系統で短期間で天皇が交代する状況にありました。
後醍醐天皇
そして1318年に後醍醐天皇が即位されます。
後醍醐天皇は学問に熱心で、特に南宋(中国)の学問 朱子学に傾倒しておられました。
朱子学は大義名分を重要視し、君主と臣下の分別をわきまえ、上下の身分秩序や礼節を重んじることが大切と説いています。
しかし、この頃の日本は武家政権が強く、幕府が朝廷よりも力を持っていたのです。本来であれば、武士は臣下であるはずなのにです。
そこで後醍醐天皇は、天皇が自ら治世を行うことが正しいと考えられ、政治に強い意欲を見せるのです。
しかし後醍醐天皇は、両統迭立のために長期政権は望めず、さらに自分の皇子が次の天皇になれない状況に置かれていました。
そして、その仕組みをつくったのが鎌倉幕府だったことから、後醍醐天皇はひそかに〝倒幕〟を決意するのです。
1324年 賢帝 後宇多法皇が崩御された後、京の六波羅探題の調査で後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇の側近たち(日野氏ら貴族)が処分されました。
そして後醍醐天皇自身も倒幕計画が発覚して捕らえられ、隠岐の島へ島流しにされてしまったのです。
これは皇族の中にも敵対派閥(持明院統派)がいること、そして後醍醐天皇の味方が少なかったことなどが、倒幕失敗の原因と考えられます。
後醍醐天皇は幕府によって廃位(君主を位から去らせること)され、敵対派閥の光厳天皇(持明院統派)が即位されました。
しかし後醍醐天皇は、天皇中心の政治こそが正しいと心から信じ、島流しになってなお、治世の実現に意欲を示し続けたのです。
鎌倉幕府の滅亡
世の武士たちには、北条氏に反発する者が多く、後醍醐天皇に賛同する武士が増え始めました。それは河内の楠木正成(くすのきまさしげ)、播磨赤松氏や伯耆名和氏などの西国豪族たちです。
楠木正成
1333年 とうとう後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、伯耆国(鳥取県)の名和氏と共に、倒幕を目指して挙兵しました。
それと同時に、奈良吉野で皇子 護良親王(もりよししんのう)が、楠木正成と力を合わせ挙兵します。
楠木正成は河内(大阪)の千早城に籠城し、わずか1000人足らずの兵で、その数十倍はいる幕府軍との徹底抗戦を行います。
千早城は落ちずによく持ちこたえ、幕府軍の主力を引きつけることに成功します。
楠木正成は〝幕府は弱兵である〟ことを世間に示し、これにより多くの武士たちの決起を促すことになるのです。
足利尊氏(足利高氏)
幕府執権 北条高時は、畿内の危機に対し、鎌倉から北条一族名越氏を筆頭に、親族の足利高氏(あしかがたかうじ)、重臣の結城氏らを援軍として京に向かわせました。
かつて後鳥羽上皇による承久の乱以降、源氏一門の足利氏が総大将を務める戦は負け知らずとされ、足利高氏は鎌倉幕府から大いに期待されていたのです。
しかし足利高氏は後醍醐天皇の〝荘園(私有する領地)〟を管理する職を務めていたため、後醍醐天皇とは半ば主従関係にありました。
また足利一門には、偉大な祖先 源義家(みなもとのよしいえ)の、〝私の一族は後の世で天下を取る〟という言い伝えがあったことから、武家の棟梁の源氏が征夷大将軍として天下を治めるべきという考えが根付いていました。
足利氏と北条氏は、長年にわたり婚姻関係を結ぶ間柄だったことから、挙兵の求めに従いましたが、実は非常に難しい立場にあったのです。また、楠木正成の奮戦のおかげで、世の中のムードは倒幕へ傾きつつありました。
そこで後醍醐天皇は、足利高氏に味方になるように誘いかけました。
足利高氏は救援するはずの京の都へ奇襲をしかけ、北条氏の拠点六波羅探題を攻め落として、北条一族名越氏を討ち取ったのです。
多くの武士たちが倒幕の流れに乗るか乗らないか思案する中、幕府の中心にいたはずの足利高氏が〝倒幕の流れ〟を決定付けた訳です。
新田義貞
ほぼ同時期に、源氏一門の新田義貞(にったよしさだ)も、倒幕の流れに乗り挙兵しました。新田義貞は、幕府の多額の税の徴収に反発していたとされています。
新田義貞は軍勢を率い、救援により手薄になっていた幕府本拠地の鎌倉に攻め込みました。これに足利高氏の嫡男 足利義詮(あしかがよしあきら)が合流したことで、源氏に味方する東国武士たちは一斉に立ち上がり、その軍勢は総勢20万を超えるまでに膨れ上がったのです。
幕府本拠地の鎌倉は陥落し、執権の北条高時が自害して、150年続く鎌倉幕府は滅亡したのです。
元弘の乱 論功行賞
1333年 京に戻った後醍醐天皇は、すぐさま光厳天皇を廃嫡し、復位されました。そしてこれまでの制度を取り入れながらも、独自の政治改革を行います。
まずは関白藤原氏を罷免しました。これは貴族の摂関政治を排除するものです。
そして元号を〝建武〟としました。
次に武家政権を除外して、天皇を中心とする〝中央集権〟を復活させ、公正な政治を行う事を目指したのです。これが新たな政治の始まり〝建武の新政〟です。
元弘の乱で最も功績のあった足利高氏は、後醍醐天皇から本名(尊治)の〝尊〟の字が贈られ、多くの領地を与えられました。
そして鎮守府将軍(西国武士を統括する役職)に任じられます。しかし足利尊氏に政治の要職は与えられませんでした。
これには足利尊氏自身が望まなかったとする説、そして貴族たちが足利尊氏が政治に関わる事を懸念した説があります。
さらに後醍醐天皇の皇子護良親王は〝征夷大将軍〟に任じられ、公卿(貴族の上流階級)の北畠氏が〝陸奥守〟(東北武士を統括する役職)に任じられたことで、皇族や貴族が武士の上に立つという構造が誕生しました。
そんな中、もう一人の倒幕の立役者である新田義貞は、護良親王に取り入ったことで政治の要職に加わっていました。
その一方で、奮戦した地方武士たちは、残念ながら恩賞はほとんどありませんでした。中でも播磨の赤松円心(あかまつえんしん)などは、真っ先に挙兵に加わったにも関わらず、領地を削減されています。
これは地方武士たちの多くが、幕府から領地を与えられていたのですが、貴族たちが幕府に奪われていた自身の土地を、ここぞとばかりに奪い返したことが原因です。このように朝廷は、武士を冷遇していくのです。
新たな時代に向けて
建武の新政に対して、領地を失った播磨の赤松氏を始め、地方武士たちの不満は高まり続けます。
そもそも地方武士たちは、鎌倉幕府の待遇に不満があって倒幕に参加したのに、倒幕後もまったく待遇が良くなっていない訳ですから当然です。
そんな中で足利尊氏は政治に一線を画し、西国武士の統括に取り組んでいました。尊氏の公正な対応は、西国武士からの評判がすこぶる良く、足利一門の西国の基盤づくりに邁進していました。
これに脅威を感じたのが護良親王や新田義貞です。西国武士から信望を集める足利尊氏をライバル視しするようになるのです。
この頃になると忠臣楠木正成も、このような政治争いから、距離を置くようになっていました。建武の新政に早くも暗雲が立ち込め始めたのです。
禅宗の発展
建武の新政が始まった頃、京の大徳寺が五山(禅寺のベスト5)で南禅寺と並ぶ〝一位〟とされました。
五山とは後醍醐天皇が、鎌倉幕府時代に格付けされた鎌倉五山にならって、京の禅寺(臨済宗)を入れた新たな格付けを行ったものです。
筆頭(一)を亀山法皇が開かれた南禅寺、そして大徳寺を同格とし、第二を東福寺、第三を建仁寺(以上京都)、第四を建長寺、第五を円覚(えんがく)寺(以上鎌倉)としました。(後の時代で、京都五山と鎌倉五山に分かれます。)
なお、大徳寺の建立は、播磨の赤松氏の赤松円心(あかまつえんしん)によるもので、円心は、護良親王の求めに応じて挙兵し、北条氏の主力軍と戦った人物です。つまり建武の新政の立役者の一人なのです。
赤松円心は護良親王派の武士として京に入り、同郷の播磨出身の名僧、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に帰依します。そして支援して京・洛北の紫野に、大徳寺を建立したのです。
この後宗峰妙超の名声はどんどん高まり、ついに皇族の花園上皇や、後醍醐天皇までも帰依する程になりました。
この時代、貴族や皇族で禅宗に帰依する人物は多く、南禅寺や大徳寺など、京には多くの禅寺が建立されたのです。この時代の武士・皇族・貴族たちを支えたのは、まさに〝禅の不動の心〟の教えだったのです。
大徳寺
京都市観光NAVI
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=410
臨済宗(禅宗)大徳寺派の大本山。播州の守護赤松円心の寄進により、宗峰妙超が開創。後に花園天皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受け、京都五山の一位となった。後に足利義満により寺格を下げられるものの、一休さんで有名な〝一休宗純〟などの名僧が住職をつとめています。
後の世で、織田信長が黄梅院を建立し、信長死後、菩提を弔う総見院を建立、それを機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ、また茶の湯の大家千利休が帰依するなどし隆盛を極めます。
本坊と塔頭の多くは非公開ですが、大千院と高桐院等は常時見られ、その庭園美が人気です。(本坊以外は年に数回特別公開が行われます。)
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