10分で読める歴史と観光の繋がり 日本国王と呼ばれた足利義満・世阿弥の能から華道・茶道まで、北山文化が花開く/ゆかりの京都 世界遺産 金閣寺、京都五山 相国寺、新熊野神社 

歴史のはなし

テーマは日本の歴史の流れと、観光を結びつけることで、旅をおもしろくしようという取り組みです!あたりまえのことではありますが、日本の歴史の主要人物と歴史ある寺社仏閣は様々な関係性で繋がっています。

歴史は時代と時代を分断せずに、流れで見るとよりおもしろく感じられます。時代の流れの中で、多くの寺社仏閣が生まれています。現地でそのことに想いを馳せることで旅に浪漫が生まれます。
※歴史解説がメインではないので、簡単に流れをまとめています!(諸説ありでよろしくお願いいたします。)

室町時代の初期は混迷の南北朝時代が終わりを迎え、多様な文化が華やかに開く北山文化の時代となります。

苦難を迎える室町幕府 足利義詮と義満


足利尊氏

1358年 室町幕府初代将軍 足利尊氏(あしかが たかうじ)が亡くなった後、二代将軍足利義詮(あしかが よしあきら)が北朝の軍を率いて南朝制圧を行っていました。

しかし幕府の中で派閥争いが激化したため、一部の派閥勢力が南朝と結びつき、北朝(幕府)と南朝の争いは一進一退になっていたのです。

1361年 幕府細川清氏(ほそかわ きようじ)が、足利一門細川氏の当主でありながら、南朝側について南朝総大将楠木正儀(くすのき まさのり)と京に侵攻し、将軍足利義詮は危機を迎えていました。

足利義満

侵攻された京では、まだ幼かった足利義満(あしかが よしみつ)が建仁寺に避難した後、播磨赤松氏に庇護されるなど苦難の日々を過ごしていました。

将軍 足利義詮はこの危機に、一時近江(滋賀県)へ逃れていました。しかし後に勢力を回復させて京を奪回し、反乱の首謀者である細川清氏を討ちとったのです。

婆娑羅と伝統文化の発展

このように北朝(幕府)と南朝の戦乱が続く室町時代ですが、丁度この頃後の北山文化に繋がる多様な文化が花開き始めます。

近江守護を務める佐々木道誉(ささき どうよ)という人物がいます。彼は源頼朝以来、代々源氏に仕えてきた佐々木氏の当主です。

佐々木道誉足利尊氏の元で多くの戦功を立てた武士ですが、新田氏との戦で足利氏を裏切り、また戦況が変わると足利氏に復帰するなど、機を見るに敏なところがある人物なのです。

また足利尊氏と弟の直義の争いでは有利な直義側に付くなど、この時代には珍しい有利不利に合わせて主君に背く人物だったのです。しかし佐々木道誉の実力には足利尊氏も一目置いていたとされています。

この時代では、従来の武士とは違う価値観を持ち、自由奔放に自主独立思想を持つ人物は、婆娑羅(ばさら)〟(実力主義の派手な振るまい、粋で華美な服装を好む等)と呼ばれていました。

そんな婆娑羅な武人、佐々木道誉は室町時代初期に茶の文化を流行させるのです。

抹茶鎌倉時代臨済宗 栄西(えいさい)が(中国)から持ち込み、以来禅修行の眠気覚ましとして使用されてきました。

佐々木道誉抹茶の味を楽しみ、その産地を当てて競い合う闘茶(とうちゃ)を流行させ、茶会を開いて(中国)の美術品を飾り、楽しんだとされています。

また道誉生花を好み、京の大原では〝大きな桜の木の前に巨大な真鍮の花瓶を置き、生け花に見立てて花見を楽しんだ〟という逸話を持っています。


京都大原 花の寺 勝持寺

佐々木道誉立花口伝大事という書を残し、これは華道における日本最古の書物とされ、立花(りっか=生け花のスタイル)の始まりとされています。



その他にも道誉申楽(余興として行われた、歌舞や物まねの事)を好むなど、この時代の芸能文化の発展に大きな功績を残します。

佐々木氏は後に六角氏京極氏に分かれ、守護大名として発展を続けていくことになるのです。


二代将軍から三代将軍へ

1367年 足利義満が10歳になる頃、二代将軍 足利義詮が亡くなります。幼少の身ながら三代将軍となった義満は、管領(将軍補佐)の細川頼之(ほそかわ よりゆき)に政治を任せています。

この頃の細川頼之義満の乳母の夫として、幼い義満の父に代わる存在だったのです。
細川頼之は、幕府のひっ迫する財政の改善のための政策を行います。

まずは諸国の守護大名に対し、戦時に幕府に納める上納金の負担を軽くします。これは南朝との戦に備えて守護大名を味方に付ける目的があり、同時に倹約政策を奨めて婆娑羅(ばさら)で華美な社会風潮を規制したのです。

さらに守護大名半済令(はんぜいれい)を承認します。

これは守護大名戦時下において、荘園(私有地)を持つ富豪から幕府への年貢の内の半分を独自に徴収してもよいと認めたものです。

半済令のおかげで守護大名荘園から徴収した米を、戦の兵糧や恩賞にあてられるようになったのです。

これにより戦の兵糧を幕府が用意することは無くなり、経済的負担を大きく減らすことができたのです。なお、皇族・有力寺社・有力貴族に対しては、半済を免除する(反発を避けるため)特別措置がなされています。

この半済令幕府に都合が良い反面、守護大名に大きな権限を与え、幕府にとってもろ刃の剣となるのです。

南朝との和平交渉

幕府財政が安定してきた頃、将軍義満細川頼之抜本的な南朝対策を開始します。

この時代北朝の後光厳天皇は、室町幕府三種の神器を持たない(南朝が持っていた)状態で擁立していたため、世間ではその正統性に不安があると考えられていました。




そのため南朝との対立は、南朝側勢力が増大していくリスクがあると考え、室町幕府南北合体〟を目指して交渉を開始するのです。

その一方で南朝では、1368年に即位された長慶天皇北朝と対決姿勢を見せていましたが、実は弟の熙成親王(ひろなりしんのう)と、南朝総大将 楠木正儀(くすのきまさのり)は、北朝との和平を望んでいたのです。

長慶天皇との意見が合わずに孤立した楠木正儀は、北朝(幕府)側について南北朝合体の実現のために奔走するようになります。

1379年 南北朝合体に光明が見えはじめた頃、交渉の要の管領 細川頼之が失脚します。これは政敵斯波氏一門、そして守護大名の山名氏佐々木氏らによるクーデターだったのです。
これは将軍義満を後ろ盾に一人で権力を握る細川頼之に、彼らが反感を持ったのだろうと考えられます。

将軍義満の仲裁でさえ事態はおさまらず、とうとう細川頼之は出家し、代わりの管領斯波氏が就くことになったのです。

幕府の派閥争いが落ち着き、残る課題は南北朝合体に絞られました。このままでは北朝(幕府)の天皇に対する正統性は不確かなままなのです。

1383年 事態が大きく動き、南朝長慶天皇が弟の熙成親王(後亀山天皇)に譲位します。
この前年に楠木正儀南朝に帰順していたため、即位された後亀山天皇楠木正儀とで何らかがあったと考えられます。
1388年に南北朝合体目指してきた楠木正儀は亡くなります。)

この頃には南朝の武力による交戦力は失われていたとされています。そのこともあって足利義満南朝との交渉を一時中断して諸国遊覧を行い、(鎌倉・富士山・天の橋立・厳島神社等)各地の名所を巡っています。

これはただの物見遊山ではなく、関東公方 足利氏関東管領 上杉氏を始め、有力守護の美濃土岐氏、西国の山名氏、大内氏などを牽制する目的があったとされています。

それから将軍義満半済令を活かして力を持った土岐氏・山名氏・大内氏に対して強い圧力をかけ、反乱を起こさせるように仕向けて討伐します。

将軍義満は有力守護を弱体化させ、幕府の権威を高めることに成功したのです。

明徳の和約

1392年 将軍義満南朝との交渉を再開します。

その内容は〝三つの条件〟をもとに三種の神器北朝(幕府)に譲り、北朝後小松天皇に対して譲国の儀を行うというものです。

その三つの条件とは
1.南朝北朝の皇子が交互に即位(天皇)する両統迭立に戻す。
2.国衙領(国がもつ荘園=私有地)は南朝のものとする。
3.長講堂領(京六条の荘園=私有地)は北朝のものとする。

将軍義満にとって最も重要だったのは譲国の儀を行うことです。
これは後醍醐天皇から続く南朝の天皇が正統として認めた上で、北朝後小松天皇にその正統性を譲るということです。

これは北朝(幕府)側の権威のために、なんとしても正統性を得たい願いが表れており、南朝側にすると有利な和解案です。

この和解案は無事成立し南北朝合体は実現し、なんと半世紀にも渡った南北朝争乱が終結したのです。

大政治家 足利義満の誕生

さてここからが〝怪物〟と呼ばれる大政治家 足利義満の本領発揮となります。

1395年 足利義満将軍を嫡男足利義持(あしかが よしもち)に譲り、自身は朝廷の最高職太政大臣になります。武家最高の征夷大将軍と、朝廷最高の太政大臣の両職についた人物は足利義満が初めてです。

さらに足利義満はその半年後に出家します。これは出家することで寺社にも影響力を持ち、公武(公家と武家)を越えた、最高位の地位につくことが目的だったと考えられます。

1397年 足利義満はその強大な権力の象徴を建立します。

最高貴族藤原氏から北山山荘を譲り受け、その場所に宮殿北山第の建設を始めたのです。そして舎利殿仏教の開祖釈迦の遺骨をおさめる)を建造します。

それは三層構造で、金を述べて造る金閣だったのです。

金閣の一層目は寝殿造、二層目は武家造、三層目は中国風禅宗仏殿造となっています。これは一層の寝殿造が公家様式、二層は武家様式、三層は禅宗様ということです。

まさに武家(征夷大将軍)、公家(太政大臣)、禅僧と歩んだ足利義満を象徴する建造物と言えるのです。

舎利殿金閣寺
臨済宗相国寺派。1397年足利義満が建立。金閣は宝形造りの三層殿閣で、一度放火で焼けた後、1955年に再建。金閣寺は〝世界遺産〟に指定されていますが、国宝ではありません。(もともと国宝でしたが、1950年の放火で、内部の古美術品とともに焼失してしまったため。)



庭は池泉回遊式庭園であり、境内の一番の高台には、萩の違い棚と南天の床柱で有名な茶室夕佳亭(せっかてい)がある。1994年「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録されています。

 

また、金閣は屋根に珍しい鳳凰の飾りがあります。鳳凰は〝聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わす〟とされています。

日本で鳳凰像が設置された建物は二つしかありません。その一つが平等院鳳凰堂で、藤原氏の全盛時代を築いた大政治家・藤原道長を象徴する建物です。そしてもう一つが大政治家・足利義満金閣寺です。どちらも一時代を築き、栄華を誇った二人です。



金閣の一層は寝殿造、二層は武家造、三層は中国風禅宗仏殿造です。さらに一層は金箔が貼られていない白木造となっています。

金閣は北山第宮殿の一部、シンボルとしての建物でした。金閣がお寺になったのは、足利義満死後のことで、義満の遺言として残されていたとされています。そのため義満の法号で鹿苑院殿から、鹿苑寺(正式名称)とされました。また一説では、義満の霊を鎮魂する意味があったとされています。

足利義満と能

宮殿北山第を建設した足利義満は、猿楽によって武士や貴族たちをもてなし融和させる会を度々開くようになります。

世阿弥(ぜあみ)

足利義満猿楽に初めて親しんだ時が、世阿弥(ぜあみ)との出会いとされています。

足利義満世阿弥は京の新熊野神社で催された能舞台で初めて会っています。この頃まだ青年だった義満は、初めての能鑑賞だったとされています。

義満は父と共に舞う世阿弥の姿に惚れ込み、以後世阿弥義満の側近として仕えることになります。

この時代で役者は身分が低かったのですが、義満は最高貴族藤原氏で、前関白の二条良基(にじょうよしもと)に、世阿弥の教育を任せます。

義満は才能ある世阿弥に、最高の教育をほどこし、古典を学ばせる事で、芸が大きく発展すると考えたのです。

結果世阿弥は一流の教養人として二条良基にも認められ、藤原氏の〝藤〟をとった藤若の名をもらうことになります。



猿楽は平安時代から続いてきた伝統芸能です。もともとは動きを真似る物まね寸劇の様な人を楽しませるものでしたが、それが世阿弥により幽玄の美(奥深く優雅である)を魅せるへと昇華したのです。

世阿弥〝風姿花伝〟という現代に伝わる書を残します。足利義満世阿弥を大成させ、二人が初めて出会った新熊野神社〝能楽発祥の地〟として、芸能上達の後利益があるとされています。

新熊野神社 京都観光ナビホームページ 
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=233
創建は1160年 平安後期の熊野詣盛んな頃に後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現した熊野の新宮。※拝殿の屋根にはヤタガラスの像があります。


京都フリー写真素材集

日本能楽史上紀元元年といわれる1374(応安7年)観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地としても著名。


足利義満の経済政策

足利義満は室町幕府の経済的基盤をより強固にするため、富裕層である土倉役(質や・金貸し)や、酒屋に対して税を課します。
その代わりに彼らは商売において幕府の有力者たちと結託(優遇される)するようになるのです。

これで幕府の財政はますます潤い、経済・文化・政治で、室町時代の最盛期と言われるようになります。

その象徴となるのが金閣のある宮殿北山第、そしてもう一つは御所の近くに建設された相国寺です。相国寺は出家した後に足利義満が建立した禅宗寺院で、相国太政大臣の中国風の言い方です。相国寺太政大臣 足利義満のための禅道場として建設されたのです。

1392年 相国寺が完成すると、1399年に〝高さ約109mもの七重の塔〟が建設されたとされています。しかしこの七重の塔はわずか4年で落雷で焼け、さらに再建された後にまた落雷で焼けてしまったとされています。

このようにして京の中心にそびえ立った七重の塔は、足利義満の権力の象徴だったのです。

相国寺 京都観光ナビホームページ
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=323


臨済宗相国寺派大本山。足利義満が創建を発願し、1392年(明徳3)に完成した。山内で禅宗寺院を統制管理し、禅宗行政の中心的存在であったが、失火で炎上、5年後に七層の宝塔を建立したが落雷で焼失するなど衰退、再建を繰り返した。



法堂(重文)は豊臣秀頼の寄進。天井に狩野光信筆の蟠龍図が描かれ‘鳴き龍’で知られる。
重要文化財の法堂と方丈、開山堂は通常非公開で、春や秋の特別公開で、天井画「蟠龍図」や、枯山水の庭園が見られます。
寺宝は無学祖元墨蹟(国宝)をはじめ多く、1984年の美術品を一堂に集めた承天閣美術館ができた。


日本国王 足利義満

この時代でじゃもう一つ重要な政策が行われています。明(中国)との日明貿易の再開です。これまでは南朝にさえぎられる形で国交が中断されていましたが、南北合体後にその障壁がなくなり、1401年から国交が復活したのです。



1404年の使者が訪れ、足利義満国書が届けられます。
そこには日本国王と記され、義満から日本国王として公式に認められたのです。
しかしこれは明皇帝の臣下として扱われたとも考えられます。
(中国は皇帝という爵位を臣下に与え、君臣関係を結ぶ体制があった。)

国交としての勘合貿易は、貢物を届け返礼を受け取る形式で始まりますが、実際にはによる返礼の方が多額となり、日本に大きな利益となります。これは対等な交易ではなかったということです。

1408年 足利義満は病のため突然の死を遂げます。
足利義満は死後に太上天皇(上皇)の称号を朝廷から贈られたとされています。

このような事はこれまで例がありません。

足利義満は母は第84代順徳天皇の玄孫にあたる人物とされています。義満は皇族ではありませんでしたが、皇族の血を引いていることになるのです。

また、1406年 後小松天皇の母が病で亡くなられた際に、足利義満の妻の日野康子を半ば強引に天皇の生母に準じる立場にしています。

このため足利義満後小松天皇の義理の父という立場になっていました。

1408年には次男足利義嗣(あしかが よしつぐ)を、後小松天皇の前で元服させ、さらに親子関係を結ばせて親王若宮と称させています。このようにして足利義満天皇家と非常に近い関係性を築いていたのです。

そのこともあって足利義満太上天皇(上皇)の称号を贈られたと考えられる訳ですが、実際には四代将軍 足利義持が、恐れ多い事として辞退したとされています。

しかしながら足利義満は、半世紀もの間続いた争いをおさめ、将軍太政大臣となり、中国(明)から日本国王に称され、また天皇の(義理の)父にまでなった、まさに日本史上最大の政治家といえるのではないでしょうか。

さらに足利義満怪物政治家とされる理由がもう一つあります。義満の死後、後小松天皇が譲位したのは後小松天皇の皇子(称光天皇)です。

本来ならば明徳の和約両統迭立の約束のもと、南朝後亀山上皇の皇子が天皇になるはずでした。しかし約束した当事者義満の死後ということもあり、その約束が四代将軍 足利義持によって反故にされてしまったのです。

実のところ足利義満自身も、その約束を守る気がなかったようで、南朝の人々は足利義満に見事に欺かれ、三種の神器天皇正統性北朝(幕府)に渡してしまったと考えられます。

欺かれた後亀山上皇は、京都を出て奈良の吉野へ移り、このことに反発することになります。これが後南朝の始まりとなるのです。

次の話
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